いとをかしな古典
哲学に続き教養を身につけるということで、今回は古典です。
まず最初に、自分の古典に対するイメージを考えました。
私の中の古典は、高校時代にあまり触れてこなかったものだったので
記憶もうっすらとしていて、物語を表す古典の先生の絵が、躍動感があって印象的だったな。という感じでした。
次に、古典の知識がないに等しい私が、
古典は必要なのか。という問いについて自分なりの答えを探していきました。
私が思うに、古典を学ぶことは英語を学ばなければならないことと似ていて、
「日本人だから英語いらないじゃん!」みたいに「現代人だから古人の文学なんていらないじゃん!」ってことかなと。
でもどちらかというと、英語のほうが自分が暮らしている場所で外国語を話す人と直接出会うことが増えてきて、コミュニケーションをとるためには英語の知識が多少なりとも必要になってくることは想像しやすくて、学ぶ理由も理解しやすいんじゃないかと思います。
それに対して古典は、自分が昔の人と直接的なコミュニケーションをとることなんてないだろうし、現実味がなくて必要性を感じにくいものなのではなかと考えました。
そんな屁理屈を並べている私ですが、今回改めて横山先生から古典を学び、
古典文学に対する向き合い方を間違っていたなと反省しました。
中高生時代は、「変な言葉使うなあ」とか「変な言い回しするなあ」とかそんなことを思うばかりで、「なぜ」そういう表現をしているのかを理解しようともしていなかったと思います。
「なぜ」を考えていくと、
「徒然草」
~すずりにむかひて~
について、古典文学の研究者は「硯に向かう」という表現におかしさを感じるといいます。「机に向かう」ではないかと。
探っていくと、源氏物語に「すずりにむかひて」という表現が何度もあるそうで、
徒然草の「すずりにむかひて」が源氏物語から引用されているのではないかという研究結果にたどり着いているそうです。そしてそれが、もしかしたらリスペクトを表すものだったり、自分の知識を表すものだったりするそうです。
そして、「硯に向かう」ということが、誰にも見られたくない自分の心の中を書き表す行動なんだと考えられているそうです。
私も、人に上手く気持ちを伝えられなかったときに、誰にも渡さないんだけど
相手宛に本当の気持ちを綴った手紙を書くことがあります。
落ち込んでいるときなんかも、心の整理をするために自分の気持ちを書いてみたりします。
もしかしたら、こういう行動って昔を生きた人たちから何かが伝わってきているのかもしれないと思うと、昔があって今なんだ。という感覚になります。
そうするとやっぱり、古典は必要なんじゃないかな?と思います。
今、自分が日本人として様々な感情を表現するときに使う言葉や行動は、変化しながら古代から伝わってきたものだと教えてくれてくれるのが古典で、その変化を感じることで自分が今を生きていることを認識し、今ある表現の多様性を受け入れることができるのかもしれません。