どんどんわからなくなる。
色々なものに触れて感じてみると、自分のしたいことが見えてきて
なんとなく私にでもできることがわかるのかなと思っていましたが、
最近は、触れることでどんどんわからなくなっています。
先日、八女市にある地域文化商社「うなぎの寝床」に行ってきました。
うなぎの寝床では、
「ものとひとを介した
本質的な地域文化の継承と収束
その在り方を思考し、行動し続ける生態系をつくる」
という事業目的で、ものが持つ物語を伝え、単なる地域商社では行き届かない「地域文化の継承」を可能にしようとしています。
ホームページには、地域文化商社としての事業や思いが詳細に記載されていて、
ちょっと難しいですが、読んだ人が自分なりの解釈をできるように仕組まれているような気がします。
ひとつのものが、今ここに存在している意味や価値、(土地性、歴史・・・)を「うなぎの寝床」として解釈して、地域文化を体現した「もの」を介してひとに伝えて。そのものを目で見て手で触れたひとりひとりによって、また違う解釈が生まれて、その瞬間に、地域文化が繋がる。だから、「ものとひとを介す」ことが必要なんだ。と私は思いました。
全然違うかもしれないけど、「もの」だけでなく「ひと」が持つ特性をも利用した、それぞれの良さを生む事業なんだなと、なんとなく感じました。
店舗に行ってみると、やっぱり良さそうなものが並んでいるし、ちっさな戸をくぐって靴を脱いで畳に上がるというスタイルで、畳とか木とか自然のいい匂いがして。すごくわくわくするんだけど、何よりも、ものの良さを感じれるような空間づくりがなされていました。
八女市の良さ、福岡の良さ、日本の良さ。
小さくも大きくも捉えれられる地域というものを
ひとつの空間やものから感じることができて、
胸がいっぱいになりました。
私の、最近のしたいなと思うことの「こだわったものづくり」に近いものなのかな。とも思いました。
でも、やっぱり「良いもの」は「お値段も良い」。
ものすごく値の張るものを揃えられているという
感じではなかったですが、金欠の私には買うことができませんでした。
欲しいのに買えないというもどかしさと、切なさと。良いものって、人をこんな気持ちにもさせるんだって。でも、いつか買いに来れたらいいなって。
そういう、良いものを買えるような大人になろうっていう決意とか、私が買いに行けるようになるまでここに店舗を持ってて欲しいっていう願いとか、
色んな色んなものを、貰える場所でした。
が、そうなると私が関わりたいものって???
買えない切なさではないかもしれない。
かわいい!ほしい!と思ったものが、
想像したより安くて買えたときの嬉しさのほうが
関わりたいものづくりなのかもしれない。
でも、それって誰のために?
そういうこと考えてると、わからなくなります。
みんなはどうやって、何に向かって準備を進めてるんだろう。私はまだ、自分を探して同じとこにずっといます。
こうしてるうちにチャンスを逃さないように、
考えて行動しなきゃなと思います。
ストレングスファインダー2.0
次回のゼミで自己分析を共有して他己分析につなげようということになったので、
グループ共通で行ったストレングスファインダー2.0の結果を記録しておこうと思います。
結果(top5の資質)
①成長促進
②共感性
③未来志向性
④戦略性
⑤信念
結果を見て
心底、自分のことをわかっていなかったなというのが一番の感想です。
今までの自己分析では、乏しい語彙力でぼんやりと自分を表現することしかできませんでした。だから、どこかモヤモヤが残るし、納得がいかなかったし、ありきたりな表現しか出てこないから、人の心に刺さる文章がかけなかったのかなと思います。
それに、自分のなかではブレブレだと思っていたものがしっかりと自分の中に軸として存在しているということがわかって、わからなかった今までとは違った生き方をしないといけないのかな?なんて考えています。
この結果に影響されすぎないようにしたいです。。。
ストレングスファインダー2.0を読んで、テストをしてみて、
自分の強みをどう表現できるのか、その強みをどう生かすのか、逆にtop5にあがらなかった他の資質を弱みだと捉えて、今の自分に何が必要でどうすれば弱みを克服することができるのか、いろいろ考えました。
でもやっぱり、これは「参考にする」程度にしておかないと、引っ張られすぎて
自分の思う自分とかけ離れてしまう気がしています。
明日何するかも決められないのに。
これまで参加したインターンについて、毎回のメモを見ながらまとめていきます。
辞めたって転職したっていいんだから、気楽にやりなさいってわけにもいかないみたいです。
銀行①
初めてのインターンは、8月26日の地方銀行の対面での座談会でした。
インターンとは言えないのかな。
私は、数字には苦手意識があるし、たっくさんの数字に囲まれて仕事するなんて荷が重すぎる、向いてない。そこまで把握していたのに、地元での就職を考え始めたのでなんとなく地方銀行とかかな?って本当になんとなく参加しました。
この日は、金融業界のこと、銀行の役割、fintechの取り組みなどのお話を伺い、後に質疑応答という形で、特に緊張するようなことはありませんでした。
これからの銀行については、人生100年時代と言われる今、銀行として顧客に何ができるのか。デジタル技術の活用によって事務作業を効率化されたことで、顧客のニーズと向き合う時間が増えている。などなど。。。
お話を聞いていると、銀行って意外と数字というよりお客様と向き合う仕事なんだなということがわかってきて、もしかしたら、そんなに苦手な職種ではないのでは?と思うようになりました。だからと言って、したいと思う仕事でもないわけです。。。
その日担当してくださっていた行員さんは、大学生のうちにやるべきことは?という他学生の質問に対して、「勉強や資格取得も大切だけど、お客様にお話しできるネタづくりのためにも色々な経験をしたほうがいい。たくさん遊んだほうがいい。」ということを仰っていました。なんとなく行ってみた旅行先やちょっとしてみたスポーツがお客様との共通の話題となって信頼関係を築くきっかけとなるんだとか。。。
学生には学生時代にしかできないことがあるみたいです。
とりあえず行ってみる、やってみるが色んなものに繋がっていくんだなと思いました。
食品①
翌日の8月27日は、製パンメーカーのインターンに参加しました。1dayの対面です。
内容は、秋の新商品開発を体験してみようというもの。
ターゲットを「働いている30代女性」とすること、「地域の秋の旬の食材」を使用することの2つの条件を与えられ、実際にメーカーさんで使われているようなコンセプトシートを用いて、自分一人で新商品コンセプトを完成させました(3密を避けてグループワークはなし)。
2つの条件以外のパンの特徴、食シーン、価格、食感、生地などはすべて自由に決められたのですが、限られた時間ではなかなか詰められないなというのが正直な気持ちでした。
そして、その後に加えられた条件が1つ。「生産性の高さ」です。
参加した製パンメーカーさんのパンのほとんどは、スーパーに並び、主婦が手に取り、朝の食卓に用いられることを想定して作られたもの。一般の主婦は、朝ごはんにそんなにお金をかけられないし、スーパーに並ぶパンなんて「安く」ないと売れないそうです。(コンビニのPB商品は、主にターゲットを男性としているのでまた違うそうです。)
「生産性とはなにか」という説明に入ると、生産性が高いということは、付加価値が低いということだから、生産性を追求しすぎると商品の付加価値が下がってしまう。そのバランスを考えながら、新商品を提供してくださいとのことでした。大量生産ができて、機械化ができて、効率的に収益化できるパン。。。
「おいしさ」や「食べたときの気持ち」は二の次なのかなと感じてしまいました。
私たちは、スーパーで売られている商品が大体どのくらいの価格なのか、平均だったり上限下限だったりを聞かされないまま一人で考える時間に入りました。
生産性、安さと言いながら価格設定についての補足説明がなかったことに、どんな意味があったのかは考えきれませんでした。
全員のコンセプトシートが集められ、フィードバックの時間に入ると、そこでも「価格」と「生産性」について、全体的に価格設定が高すぎるからこれでは生産性が保たれないといわれました。
たった一日のインターンで、私がこの製パンメーカーさんに対して持った感想は、
「あ、ここは、みんなのおいしいやみんなの幸せを食べ物で叶えようとする場所ではないんだな」です。おいしいモノをつくろうとはしているけど、その前に生産性が来る。
世の中にたくさんの商品を送り出しているメーカーなんだから、それが当たり前のことなのかもしれません。だけど、私のしたいモノづくりとはまた違うのかなと思いました。
本当に自分がしたいと思ってることは何なのか、したいの中にも種類があること。
企業の理念やモノづくりに対する思いによっては、したいことではないということ。
色々な気づきがあったので、本当に参加してよかった。
でも、まだまだ見えてないところばかりで、もっと知ってもっと考えれば違うなにかが見えてくるかもしれません。なんとなく、行ってみるしてみるを続けて、行く意味、いった意味を考えられたらいいなと思います。
銀行②
9月10.11日でまた違う地方銀行の2dayインターンに行きました。
1日目は、ある大手企業の有価証券報告書を用いて財務分析をし、銀行としてその企業に対してどのようなサポートができるかの提案をしました。財務分析と提案はグループワークで、知らない人となんとか試行錯誤しながらという感じで、そんなにグループのみなさんのことを知ることはできませんでした。一応、同じ大学で固められていたのですが、特に盛り上がることもなく、みんなが自分を隠しているみたいですごくやりづらかったです。
遠慮なしに気にせず、ガツガツ。課題です。
2日目は、投資信託の相談と提案のロールプレイングをしました。
ここでも、人生100年時代です。老後に向けての資産形成、資産運用によるお金の循環。タンス貯金が大好きな日本人にどう訴えかけるか。やっぱり苦手だなとしみじみ。
銀行のインターンでいわれることは、すべてあまり頭に入ってきません。
イメージがわかないというか、なんというか。
ちょっとだけ向いてるのかも?と思ったりもしましたが、
このグループワークで、自分が思っているより人と話すのは上手くないということがわかったし、心底お金の話は理解できないと思ったし、よーく考えたらやっぱり向いてないのかも。
じゃあ、何ならできるのか。第一志望以外の働きたい場所ってあるのか。
仕事は仕事、プライベートはプライベートなのかなんなのか。わからないです。
食品②
9月25日、ゼミを少し早く抜けさせてもらって、初めてのオンラインインターンに参加しました。オンラインだからと言って特にやりづらさは感じず、企業さん説明がすごく丁寧だったので、むしろスムーズに進みました。
BtoCを大切にしてある食品メーカーさんで、多数のブランドを構えてお出汁や明太子などを販売されています。会社説明では、「ユニークな企業であり続けたい」「独自性の追求」「大手にはできないことを」「こだわりを届ける」「ありがとうの気持ちの体現」「おもてなしの精神」「本当の幸せ」そんなほっこりする言葉の数々が度々。
オンラインならではのやりにくさを感じなかったのは、そういう企業理念だったり、精神だったりをインターンに参加した学生に向けてくれていたからだと気づきました。
ここでも、新商品の提案という形でグループワークを行いました。
ターゲット、コンセプト、イメージ、シーン、販売形態、価格、45分程度のディスカッションですべてを決めなければならないは、やっぱり難しかったですが、
企業のモノづくりに対する姿勢に共感することができれば、どんどんイメージがわいてきてくるんだなというのが発見です。
私が経験したいモノづくりってこういうことなのかも。とか、こういう雰囲気の会社っていいなとか。一番前向きなイメージができたなと思います。
こだわったからこその高価格って、好きだなと思います。
大手ほどたくさんの人には売れないかもしれないけど、
AO入試の面接で杉本先生に聞かれた「たくさん売りたいの?」って言葉に引っかかったときのことを思い出しました。その時は「はい!」って言っちゃったけど。。。
その時から、そういうわけではなかった気がします。
その時は、みんなのおいしいを叶えるコンビニスイーツを作りたいっていってたけど、今はこだわったモノづくりに関わりたいという感じかな。
週間スケジュール(9.27~10.2)
おおまかだけどなんとなく
未定は決まったら編集
9.27(日)
14:00 インターン アンケート回答
15:00 課題
16:00
↧ バイト
24:00
9.28(月)
9:00 なんか作る (パン)
15:00 ちょっと出かける
17:00 勉強
9.29(火)
9:00
↧ 授業
14:30
15:00 インターン ブログ進める
来週のゼミにむけての 構想
17:00 課題 いろいろ
9.30(水)
10:00 インターン メモ まとめる
15:00 インターン ブログ 投稿
17:00
↧ バイト
24:00
10.01(木)
9:00 勉強
10:40
↧ 授業
17:50
18:30 課題
企業、インターン探し
10.02(金)
9:00 インターン まとめる
10:40
↧ 授業
17:50
18:30
↧ バイト
24:00
いとをかしな古典
哲学に続き教養を身につけるということで、今回は古典です。
まず最初に、自分の古典に対するイメージを考えました。
私の中の古典は、高校時代にあまり触れてこなかったものだったので
記憶もうっすらとしていて、物語を表す古典の先生の絵が、躍動感があって印象的だったな。という感じでした。
次に、古典の知識がないに等しい私が、
古典は必要なのか。という問いについて自分なりの答えを探していきました。
私が思うに、古典を学ぶことは英語を学ばなければならないことと似ていて、
「日本人だから英語いらないじゃん!」みたいに「現代人だから古人の文学なんていらないじゃん!」ってことかなと。
でもどちらかというと、英語のほうが自分が暮らしている場所で外国語を話す人と直接出会うことが増えてきて、コミュニケーションをとるためには英語の知識が多少なりとも必要になってくることは想像しやすくて、学ぶ理由も理解しやすいんじゃないかと思います。
それに対して古典は、自分が昔の人と直接的なコミュニケーションをとることなんてないだろうし、現実味がなくて必要性を感じにくいものなのではなかと考えました。
そんな屁理屈を並べている私ですが、今回改めて横山先生から古典を学び、
古典文学に対する向き合い方を間違っていたなと反省しました。
中高生時代は、「変な言葉使うなあ」とか「変な言い回しするなあ」とかそんなことを思うばかりで、「なぜ」そういう表現をしているのかを理解しようともしていなかったと思います。
「なぜ」を考えていくと、
「徒然草」
~すずりにむかひて~
について、古典文学の研究者は「硯に向かう」という表現におかしさを感じるといいます。「机に向かう」ではないかと。
探っていくと、源氏物語に「すずりにむかひて」という表現が何度もあるそうで、
徒然草の「すずりにむかひて」が源氏物語から引用されているのではないかという研究結果にたどり着いているそうです。そしてそれが、もしかしたらリスペクトを表すものだったり、自分の知識を表すものだったりするそうです。
そして、「硯に向かう」ということが、誰にも見られたくない自分の心の中を書き表す行動なんだと考えられているそうです。
私も、人に上手く気持ちを伝えられなかったときに、誰にも渡さないんだけど
相手宛に本当の気持ちを綴った手紙を書くことがあります。
落ち込んでいるときなんかも、心の整理をするために自分の気持ちを書いてみたりします。
もしかしたら、こういう行動って昔を生きた人たちから何かが伝わってきているのかもしれないと思うと、昔があって今なんだ。という感覚になります。
そうするとやっぱり、古典は必要なんじゃないかな?と思います。
今、自分が日本人として様々な感情を表現するときに使う言葉や行動は、変化しながら古代から伝わってきたものだと教えてくれてくれるのが古典で、その変化を感じることで自分が今を生きていることを認識し、今ある表現の多様性を受け入れることができるのかもしれません。
考えきれない哲学
前回に引き続き、差別感情について考えました。
今回は、哲学対話でした。
2つの問いについてグループで考えていったのですが、「そもそも差別ってどこまでの領域をさすのか」から話し始めなければわからない状況になってしまって、中々答えを導き出すことができませんでした。
改めて、自分自身で考え直してみたいと思います。
(問1)なぜ、われわれは「あなたは差別している」と言われたくないのか。
そもそも、差別しているって言われたくないのかなぁ?と思ってしまって、すごく考えるのが難しかったです。
なぜ、そもそもーと思ってしまったか。それは、
差別はいけないこと。みんな平等の権利を持っている。とこれまでさんざん教えてもらってきましたが、それと同時に差別をすることはごく自然な行為であると感じてきた自分が居るからです。
差別をしていない人なんていなくて、仮にいるとするならその人は普通じゃない特別な人なんだろうと思います。
差別をするのが人間で、差別という感情、行為は自然なもので。反対に差別をしないほうが感情に欠けているというか、人間ではない何かみたいな。。。
差別は良くないことだとはわかっているんだけど、
差別をしたいと思っているわけでもないのに
自分の中から差別感情がなくならないことも知っていて。差別をしていない普通じゃない人だと思われたいわけでもなく、、といってもどちらかというと普通の人間でありたいから差別をしている人と思われたくないわけでもないような。。。
なんだか本当に訳がわからなくて
問いについて考えることができずにいます。
でも、いくら自然な感情だったとしても確かに差別をしていることって後ろめたくなりますよね。それはなんでだろう?ってことですよね。。。
うーん。
特別になりたいんですかね。
本当は、普通とは違う特別な存在になりたいのかも?
差別している普通の人間じゃなくて、
差別していない普通じゃなくて、特別で、たぶん、いいひとに。
(問2)差別をしたくない場合、どうしたらいいか。
あるいはそもそも差別をしてしまっても仕方ないことなのか。だとしたら、なぜ世の中ではかくも「差別はいけない」と言われているのか。
◽︎差別をしたくない場合、どうしたらいいか。
今まで考えてきたことから言うと、
とにかく普通じゃなくなればいいんじゃないかなと
思います。😰じゃあ、そもそも普通ってなに?ってなっちゃうけど、少数派になるというか、人とは違うことをとにかくやってみて多数派の人と違う価値観を育ててい くとか。自然じゃない、人工的な自分になるとか。。。
私は、自分の中の差別感情を消したいと思うし
差別をしない人間になりたいと思っていましたが、
こうやって考えてみると人間の感情って、本当の自分じゃ無くなる以外消せないんじゃないかなと思ってきました。
◽︎なぜ、世の中では差別はいけないと言われているのか。
それは、世の中が平等ではないからだと思います。
みんな平等だと世界が言っても、国が言っても、先生が言っても、誰も実際に平等に扱われてきた経験なんてないし、どこかで劣等感を抱いてきたから。逆に、優越感を得てきたから。
だから、自分を差別しないように、人を差別しないようにルールを設けようとしているんだと思います。
本当は平等ではなくても、みんな違ってみんないいということをわからせるために。
むずかしすぎる哲学
私は文章を読むのが得意じゃないし、理解力がないのでちゃんとこの文章を汲み取れているのか自信はないですが、考えてみました。
A:悪意は人を鍛え、かつ人を滅ぼす
冒頭に、「われわれの心に住まう悪意をことごとく消去すべきだろうか?」という問題提起がされていますが、私は自分の中の悪意なんて無くなってしまえばいいと思ってきたし、ただこの一文だけを読んだ率直な感想は、「消去できた方がいいんじゃないのかな、、?」というものでした。
どんどん読み進めていくと、自分の具体的な経験に当てはまるのかな?と思う点もありました。
「ある集団や個体を好み、別の集団や個体を嫌う」という点です。高校時代には苦手意識を持ってしまうグループとは関わらないようにしてしまっていたし、自分がいるグループだけで楽しめればいいと思っていました。
あの人たちと私たちは違うという認識で、
Bであるように、社会的劣位グループかどうかは別として、「そのグループの構成員をその構成員であるがゆえに一律に不快に」思っていたのです。そうなると、私は立派な差別感情を持っていました。
でも、そう感じてしまう自分がすごく嫌で、どんな場所でも上手くやっていける人を羨んでいたし、今でもそうなりたいと思ってしまいます。この差別を悪意に基づくものだと言うのなら、私はこの悪意を消去してしまいたいです。
また、「友情も恋愛も家族愛もそれを妬み破壊しようとする敵がいてこそ大切な絆なのである」という点では、
ちょっと違う気もするけど経験に当てはめたらこういうことかな?と考えてみました。
思春期の頃には、自分の家族の会話は他の家族の会話と比べて真面目すぎるな。もっと楽観的だったら良かったのに。と思うこともありました。でもやっぱり、私の家族の形が1番幸せだと思いたい私もいました。
ここで言う「妬み破壊しようとする敵がいる」というののを、「比較対象がいる」ということに置き換えてしまってはいますが、他と比較して尚、家族を愛しく思えた経験はあるなと思います。
すごく納得している訳でもないし、全く分からないという訳でもないです。たぶん、、、。
B:快、不快を統制する社会の恐ろしさ
ここでは、快、不快を統制してはならないということが述べられています。誰も他人に不快に感じられたくはないし、例え他人を不快に感じてもあたかも不快を感じて居ないかのように振る舞うべきであるということが、現代日本人の人間関係には常識として根付いているといいます。
確かに幼い頃、親や幼稚園の先生に、「相手が傷つくことは言ってはいけない」「自分がされたくないことはしてはいけない」と教えらました。しかし、自分の不快を相手に伝えることはあまり良くないこととは教えられても、相手を不快に感じることに対してはその感情を抑えなさいというふうには言われて来ませんでした。
その結果、私は他人に不快に感じられてきたし、他人を不快に感じてきました。もちろん、不快に感じられていた事をあとから知って傷ついたこともあるし、その事実を受け入れられずに自分に自信を失ってきました。
そう考えると、
今の私は、他人に不快を抱くこと、い抱かれることを統制されなかったが故に養われた感受性によって出来ているようにも思えてきます。
あなたの中の悪意や不快、差別感情はあっていいものだよ。それでいいんだよ。と言われてるようです。
森田先生の言っていた、「哲学を学ぶことで具体的な経験に一喜一憂しない」ってなんかこんな感じなのかな、と思います。
ざっくり、「自分の属する共同体の当たり前や常識を他人に求めてはいけない」とか、「無意識のうちにその当たり前や常識を押し付けている」ということかな?と思いました。知らないうちに、誰かを差別しているのかもしれません。
:家族至上主義
第2段落、「あらゆる愛の表明の中で、家族愛の表明だけが特権的に安全なのだ」とありますが、過去に「娘の細くて綺麗な体を保たせたいがために、食を与えずにいた。」という過剰な家族愛による虐待のニュースを見たのを思い出しました。
「これは、家族に恵まれない人、~~~縁を切りたい人にとっては極めて残酷な事態ではないだろうか」と文は続きますが、もしかすると、この文の後には露骨な愛を注いでも許される唯一の組織としての家族があることは、「家族を愛しすぎる人」にはむしろ危険であるという文が続いてしまうのかもしれないと思ってしまいました。
その後の文は、人間の無茶苦茶な差別感情を描いているような気がしました。ここで、正統派ではないとされる人たちは自分の喜びや悲しみを公のものにしてはならないし、正統派が感じられる喜びや哀しみを感じることさえ許されない家族至上主義のおかしさを訴えているように思いました。
D:「よいこと」を目指す態度
小学校の頃、勉強もスポーツもできてユーモアもあって背が高い男の子がモテていました。
何でもできること、何でも兼ね備えていることが「よいこと」だと思っていたからだと思います。そう教えられて。
「よいこと」をしている人はみんなの憧れの的となり、
「○○ちゃん、○○くんみたいになりなさい」と言うふうにいわれます。
幼い私は、
「よいこと」をできない自分は、「よいこと」をできる○○ちゃんとは違うと思っていました。
その事に対して、おかしいことだとも思ったことがありませんでした。
「よいこと」をできる方もできない方も、それが世の中なんだと覚えさせられてしまっている実態に、
これを読むまでなんとも思ったことのなかった私。
これから触れる哲学に、ちゃんとついていけるのか、
不安です。