むずかしすぎる哲学


私は文章を読むのが得意じゃないし、理解力がないのでちゃんとこの文章を汲み取れているのか自信はないですが、考えてみました。


A:悪意は人を鍛え、かつ人を滅ぼす

冒頭に、「われわれの心に住まう悪意をことごとく消去すべきだろうか?」という問題提起がされていますが、私は自分の中の悪意なんて無くなってしまえばいいと思ってきたし、ただこの一文だけを読んだ率直な感想は、「消去できた方がいいんじゃないのかな、、?」というものでした。
どんどん読み進めていくと、自分の具体的な経験に当てはまるのかな?と思う点もありました。
「ある集団や個体を好み、別の集団や個体を嫌う」という点です。高校時代には苦手意識を持ってしまうグループとは関わらないようにしてしまっていたし、自分がいるグループだけで楽しめればいいと思っていました。
あの人たちと私たちは違うという認識で、
Bであるように、社会的劣位グループかどうかは別として、「そのグループの構成員をその構成員であるがゆえに一律に不快に」思っていたのです。そうなると、私は立派な差別感情を持っていました。
でも、そう感じてしまう自分がすごく嫌で、どんな場所でも上手くやっていける人を羨んでいたし、今でもそうなりたいと思ってしまいます。この差別を悪意に基づくものだと言うのなら、私はこの悪意を消去してしまいたいです。


また、「友情も恋愛も家族愛もそれを妬み破壊しようとする敵がいてこそ大切な絆なのである」という点では、
ちょっと違う気もするけど経験に当てはめたらこういうことかな?と考えてみました。
思春期の頃には、自分の家族の会話は他の家族の会話と比べて真面目すぎるな。もっと楽観的だったら良かったのに。と思うこともありました。でもやっぱり、私の家族の形が1番幸せだと思いたい私もいました。
ここで言う「妬み破壊しようとする敵がいる」というののを、「比較対象がいる」ということに置き換えてしまってはいますが、他と比較して尚、家族を愛しく思えた経験はあるなと思います。
すごく納得している訳でもないし、全く分からないという訳でもないです。たぶん、、、。


B:快、不快を統制する社会の恐ろしさ

ここでは、快、不快を統制してはならないということが述べられています。誰も他人に不快に感じられたくはないし、例え他人を不快に感じてもあたかも不快を感じて居ないかのように振る舞うべきであるということが、現代日本人の人間関係には常識として根付いているといいます。
確かに幼い頃、親や幼稚園の先生に、「相手が傷つくことは言ってはいけない」「自分がされたくないことはしてはいけない」と教えらました。しかし、自分の不快を相手に伝えることはあまり良くないこととは教えられても、相手を不快に感じることに対してはその感情を抑えなさいというふうには言われて来ませんでした。
その結果、私は他人に不快に感じられてきたし、他人を不快に感じてきました。もちろん、不快に感じられていた事をあとから知って傷ついたこともあるし、その事実を受け入れられずに自分に自信を失ってきました。

そう考えると、
今の私は、他人に不快を抱くこと、い抱かれることを統制されなかったが故に養われた感受性によって出来ているようにも思えてきます。
あなたの中の悪意や不快、差別感情はあっていいものだよ。それでいいんだよ。と言われてるようです。
森田先生の言っていた、「哲学を学ぶことで具体的な経験に一喜一憂しない」ってなんかこんな感じなのかな、と思います。

C:帰属意識アイデンティティ

ざっくり、「自分の属する共同体の当たり前や常識を他人に求めてはいけない」とか、「無意識のうちにその当たり前や常識を押し付けている」ということかな?と思いました。知らないうちに、誰かを差別しているのかもしれません。

:家族至上主義
第2段落、「あらゆる愛の表明の中で、家族愛の表明だけが特権的に安全なのだ」とありますが、過去に「娘の細くて綺麗な体を保たせたいがために、食を与えずにいた。」という過剰な家族愛による虐待のニュースを見たのを思い出しました。
「これは、家族に恵まれない人、~~~縁を切りたい人にとっては極めて残酷な事態ではないだろうか」と文は続きますが、もしかすると、この文の後には露骨な愛を注いでも許される唯一の組織としての家族があることは、「家族を愛しすぎる人」にはむしろ危険であるという文が続いてしまうのかもしれないと思ってしまいました。

その後の文は、人間の無茶苦茶な差別感情を描いているような気がしました。ここで、正統派ではないとされる人たちは自分の喜びや悲しみを公のものにしてはならないし、正統派が感じられる喜びや哀しみを感じることさえ許されない家族至上主義のおかしさを訴えているように思いました。

D:「よいこと」を目指す態度

小学校の頃、勉強もスポーツもできてユーモアもあって背が高い男の子がモテていました。
何でもできること、何でも兼ね備えていることが「よいこと」だと思っていたからだと思います。そう教えられて。

「よいこと」をしている人はみんなの憧れの的となり、
「○○ちゃん、○○くんみたいになりなさい」と言うふうにいわれます。

幼い私は、
「よいこと」をできない自分は、「よいこと」をできる○○ちゃんとは違うと思っていました。
その事に対して、おかしいことだとも思ったことがありませんでした。

「よいこと」をできる方もできない方も、それが世の中なんだと覚えさせられてしまっている実態に、
これを読むまでなんとも思ったことのなかった私。

これから触れる哲学に、ちゃんとついていけるのか、
不安です。